解決 かつて群馬県に5つあった「東村」を由来とする学校名簡単に消せないでしょ!

現在の利根小学校 今と昔
現在の利根小学校

かつて群馬県にはこの「東」という村が多い時で5つ存在していた。その呼び方は「あずまむら」もしくは「あづまむら」であった。

「東」はもちろん東西南北の中の東、Eestを意味しているが、特に学校名などは、メイン校が一つあって、その後新設される場合などにその位置する方向によって東西南北が付けられた事例が多い。

だが、「あずまむら」を由来とする学校名ならば、簡単に消し去ってはだめでしょう。

 


実際にあった5つの「東村」その現在は?

 かつて5つもあった「東村」はすべて合併等で2006年までに地図から名前が消えた。

・群馬郡東村 1954年(昭和29年)4月1日前橋市に編入

・利根郡東村 1956年(昭和31年)9月30日赤城根村と新設合併 利根村(現・沼田市)となる

・佐波郡東村 2005年1月1日 伊勢崎市、赤堀町、境町と新設合併 伊勢崎市となる

・勢多郡東村 2006年3月27日 笠懸町、大間々町と新設合併市制 みどり市となる

・吾妻郡東村 2006年3月27日 吾妻町と新設合併 東吾妻町となる

参照 http://mujina.sakura.ne.jp/history/etc/yomoyama/azuma.html

 


「あずま」なのか「あづま」なのか?

 吾妻郡東村のみ「あづまむら」、他の4村は「あずまむら」と記述された。

 語源から考えて「わがつま」からきているのであれば、「つ」に点々で「づ」が正しいと考えられる。がしかし吾妻郡東村のみ「あづま」だそうである。

 


私の故郷である「利根郡東村」について

 私の母方の親せきは当地の出身である。出生地は「群馬県利根郡東村」。前述のように昭和31年からは赤城根村と合併して「利根村」となった。旧東村にあったので、小学校は「利根東小学校」、中学校は「利根東中学校」の名前が残っていた。

 学校名にあった「東」は「ひがし」ではなく「あずま」と読み、「東村」の「あずま」なのである。

利根村立東中学校

 昭和22年~平成8年まで 隣接の南郷中学校が廃止、転入により平成9年からは校名が「利根村立利根中学校」となる。平成17年 沼田市に編入合併したので、校名も「沼田市立利根中学校」となる。古い人は今でも、「あずまちゅう」とか「あずちゅう」と呼ぶ。

利根村立東小学校(あずましょうがっこう)

 平成17年 沼田市編入合併に伴い「沼田市立利根東小学校」(とねあずま)となる。 平成28年(2016年)4月に、利根町にある3つの小学校(平川小・利根東小・利根西小)が統合し、利根東小の場所に「利根小学校」として新設された。古い人は今でも、「あずましょうがっこう」と呼んでいる。

 ちなみに利根西小の「西」は、本校であった利根東小から見て「西」に位置していたので、その前は分校でもあったので安易に「西」と付けたと考えられる。歴史ある地名でもなく、方角としての「にし」の意味しかない。

 


なぜ「東」(あずま)の呼称を捨てたのか?私は怒っている!

 利根町地区にある小学校3校が統合して新設校になることは、当時PTA役員などしていてその統合を推進する立場にあったので、私は大賛成であった。

 しかし、校名を「利根小学校」にすると聞いたときは愕然とした。中学校でも前例があるのだが、「東」(あずま)をいとも簡単に捨ててしまった。

 個人的には、老朽化して耐震基準に満たないなどの理由で校舎を建て直すことになった点は致し方ないとはいえ、新設学校の場所が「東小学校」であり、何も校名や校歌など新たに作り直さなくてもそのまま使えば良かったではないか。

 そのままなら封筒などの印刷物も看板もそのまま使えた。校歌だって、私の恩師の音楽の先生が作曲者だったので黙っているが、そのままでよかったはずだ。

 

「東小学校」の「あずま」には意味があるんですよ、ということをもっと子供たちに知らせてほしかった。今思うとそれだけが悔やまれる。

現在の利根小学校

現在の利根小学校


まとめ

 歴史ある旧地名を消し去ることは簡単である。そうではなくて、いかにして未来に残し、子供たちに伝え教えていくのかを考えるのが、その時に生きる大人の責務だと思う。決めてしまったことは後戻りもできない。

 

 

 新しい校名になった学校に、愛着もわかない。残念としか言えない。

 

 

スポンサーリンク

コメント

  1. […] 1904年(明治37)群馬県利根郡東村薗原(現在の群馬県沼田市利根町園原)に生まれる。 […]

タイトルとURLをコピーしました